岩崎久彌

 

岩崎久彌

雲がゆき雲がひらけて ・・・岩崎久彌物語・・・

vol.01 岩崎四代

鹿鳴館の中では内外の紳士淑女による舞踏会が盛り上がっていたであろう1885(明治18)年の寒い冬、岩崎彌太郎は胃癌の激痛と闘っていた。枕もとににじり寄った弟の彌之助や長男の久彌にうめくように言った。

「志したことの十分の一か二しかできないうちにこんなざまになってしまった。未練があるわけではないが、もう一度盛り返したい…」

土佐藩の船3隻を借りて大阪で海運事業を始めた九十九商会だったが、明治6年、彌太郎が社主となって初めて三菱を名乗り、本拠も東京に移した。国内はもと より英米のライバルとも激しい競争を展開、台湾出兵や西南の役では軍需輸送を一手に引き受け、創業数年にしてわが国の海運界を制覇した。明治15年、三菱 の独走を阻止すべく渋沢栄一や三井が中心になって共同運輸会社が設立され、またまた壮絶な競争が勃発、わが彌太郎は三菱の存亡をかけたその戦いの真っ最中 に命尽きたのだった。幕末と明治維新の変革の中を駆け抜けた彌太郎、50歳だった。

兄の遺志を引き継いだ2代目彌之助は、富国強兵、殖産興業の追い風を受けて、「海から陸へ」事業の転換を図った。高島炭坑に加え筑豊の炭坑を次々に傘下に 収め、尾去沢など銅鉱山も手中にした。政府から借り受けた長崎造船所は明治20年に買収、積極的な設備投資を行った。

財源に苦しむ政府要請に応え、草茫々の丸の内10万坪を破格の高値で買い取ったのもこの時期である。彌之助は何に使うつもりかと聞かれて、

「なあに、竹を植えて、虎でも飼うさ」と笑って答えた。

小彌太の動、久彌の静

時代は下って1916(大正5)年、彌之助の後を継いで社長を20年余つとめた3代目久彌は、彌之助の子・小彌太にその座を譲った。第一次大戦の軍需景気 のさなかだった。小彌太は先代久彌のとった事業部制をさらに発展させ、三菱合資会社を持ち株会社化し、各事業部門を分系会社として独立させた。造船、製 鉄、商事、鉱業、海上火災保険、銀行、倉庫…。

1941(昭和16)年、第二次大戦が始まった。小彌太は幹部社員に対して訓示した。

「かくなる上は三菱の総力をあげて産業報国に努めよう。だが、再び英米の友人と相携えて人類のために努める日が来るだろうことを忘れるな」

まことに勇気ある発言であった。

終戦後、連合国総司令部は財閥解体をめざし三菱の自発的解散を指示したが、小彌太は病魔に冒された身に鞭を打って最後まで抵抗した。

「三菱は…国民としてなすべき当然の義務に全力を尽くしたのであって、顧みて恥ずべき何ものもない」

強烈な個性の岩崎4代。反骨精神と国家のためという明確な意志。それは関が原の戦いで西軍についたがゆえに以後200余年、辛酸をなめた長宗我部武士の魂 であり、黒潮流れる土佐のいごっそうの気性である。坂本竜馬しかり中岡慎太郎しかり。しかし彼らと違うのは菱形三枚重ねの家紋・三階菱。これぞ甲斐武田の 割菱に発する。彌太郎ら岩崎4代を考えるときに忘れてはならない。

これは3代目久彌の物語である。初代彌太郎のもとに生まれ、わが国の近代化の中で90年の長きを生き、4代目小彌太をも看取った。動に対して静、剛に対して柔。久彌は、何を考え、何をしたのか…。

文・三菱史料館 成田 誠一
川口 俊彦
三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2000年5月号掲載

vol.02 井ノ口村を忘れず >>

雲がゆき雲がひらけて ・・・岩崎久彌物語・・・

vol.02 井ノ口村を忘れず

若き血をたぎらせていた岩崎彌太郎が、時いたらずと帰農して、安芸川の河原の開墾に明け暮れる雌伏の日々に、長男久彌が生まれた。土佐、井ノ口村。明治維新の3年前である。

岩崎家の家風に大きな影響を与えたのは彌太郎の母・美和である。町医者の娘だったが、呑んだくれで反骨の元郷士・岩崎彌次郎に嫁いだ。貧窮の中で彌太郎を 産み、育て、人の道をしっかり教えた。美和の方針は彌太郎の嫁・喜勢を通じて、かわいい孫の久彌の教育に引き継がれた。

彌太郎は土佐藩に再び登用され、長崎で藩の武器購入などに携わったが、時代は激しく動き、やがて大政奉還、明治維新。舞台は大阪に移った。海運会社「三菱 商会」を旗揚げした父のもとに家族が合流したのは、久彌8歳のときだった。高知から船で着き、西長堀の新居に行くと、まだ前の住人が荷物をまとめきれない でいた。父の会社の若い衆がてきぱきと荷物を運び込み、結果として弱者を追い出すようなかたちになった。この光景を久彌少年は心の痛みとして生涯忘れな かった。

翌年、彌太郎は東京に進出、家族も移ることになり、陸路東海道を行くことにした。川船や馬、人力車などを使いながらも基本は徒歩で、ようやく12日目に東京入りした。久彌は実によく歩いた。美和は「この孫はものになる」と思った。

久彌は親元を離れ、下宿した。後に三菱の幹部になった親戚の豊川良平らの指導のもとに福沢諭吉の慶應義塾に通った。3年後、彌太郎が開設した三菱商業学校に転じ、英語や簿記のほか世界史、経済、法律などを英文の教科書を使って学んだ。

ゴットマザー美和の教え

このころ、日本の将来を担う多くの若者がアメリカやイギリスに留学した。久彌も、彌太郎の後に三菱を継いだ叔父・彌之助の指示で、1886(明治19) 年、アメリカに渡った。一般の学生と同じようにフィラデルフィアの安下宿に入り、まずは英語を勉強、ペンシルヴァニア大学のウォートン・スクールに進んで 主に財政学を学んだ。日本とは違う自由な学生生活を満喫した。

後に外交官になり駐日公使も務めたロバート・グリスコムとは特に交友を深め、卒業にあたって一緒に欧州を旅行した。大西洋航路では、当然のようにグリスコ ムは上等船室、久彌は船底の下等船室だった。旅も終わりに近づき、ぺテルブルグの毛皮店で久彌は日本へのお土産を求めた。明治の富豪の御曹司に餞別をくれ た人は多かったのであろう。久彌が高価な毛皮を大量に発注するのを目にしたグリスコムは心底から仰天した。のちに述懐している。「カーネギーとロックフェ ラーを併せたような偉大な地位につく男とは、その時までこれっぽっちも思わなかった」

久彌はフィラデルフィアでは極めて普通の学生だったのだ。

岩崎家のゴッドマザー・美和が書き残した訓戒に、「富貴になりたりといえども貧しきときの心を失うべからず」との1行がある。原点を忘れるな。岩崎4代の 心の底にある戒めである。久彌は彌之助の後を継ぎ成長期の一大企業集団を統率したが、若いころから決して奢らず、他者への配慮を忘れない経営者だった。

井ノ口村を忘れず。美和の教えを最も色濃く受け継いだのは3代目久彌だったと言える。

文・三菱史料館 成田 誠一
川口 俊彦
三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2000年6月号掲載

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vol.02 井ノ口村を忘れず

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雲がゆき雲がひらけて ・・・岩崎久彌物語・・・

vol.03 事業の多角化と組織の近代化

IT(情報技術)をいかに駆使するかがその企業の今後を左右するといわれる今日だが、日本で初めての電話交換所が東京・麹町龍ノ口にできたのは、久彌が米 国留学中の1890(明治23)年だった。このときの加入者がわずか155名でしかなかったのは、当時猛威をふるっていたコレラが電話線からも侵入すると 噂されたせいかもしれない。

さて、明治24年、久彌は5年間のフィラデルフィアでの留学を終え帰国した。アメリカは、石炭、石油、鉄鋼などを中心に産業界が発展し、カーネギーやロッ クフェラー、モルガンといった大資本家が次々に誕生した時代だった。一方、日本も、帝国大学の創設、大日本帝国憲法の発布、第1回帝国議会の開会など、近 代国家としての歩みを着実に進めていた。

明治26年には商法が整備され、三菱社も合資会社に改組することになった。これを機に久彌は彌之助からトップを引き継ぎ、28歳の若さで三菱合資会社の社長に就任した。

久彌が社長をつとめた明治から大正にかけての20余年は、日清・日露の戦争を間にはさんだ、日本の近代産業の勃興と発展の時期だった。久彌は幹部たちの意 見に耳を傾け、彌之助によって進められた事業の多角化を、ひとつひとつ確実なものにしていった。収益の大半をあげた鉱業部門では筑豊や北海道の炭坑のほか 各地の金属鉱山の買収を進め、大阪の製煉所も傘下に収めた。石炭や銅の生産は伸び、国内販売はもとより輸出攻勢がかけられた。成長部門の造船は、長崎造船 所に巨費を投じて近代化を図り、神戸と下関にも造船所を建設した。丸の内にオフィス街を建設して不動産業にも乗り出し、銀行や商事部門も業績を伸張させ た。また、化学工業の端緒になるコークス製造や朝鮮北部での製鉄を手がけ、麒麟麦酒などの起業にも参画した。

呼び名は「三菱紳士」

明治41年、久彌は事業の拡大と厳しい経営環境をにらんで、現場にコストマインドを徹底させるため、一定の資本枠を与えるなど各部への権限の移譲を断行し た。銀行部、造船部、庶務部、鉱山部、営業部、炭坑部‥。最終的に合資会社は地所部を加え8部体制となった。これは今日にいう事業部制の走りで、「個々の 事業はそれぞれの専門家に責任を持ってマネージさせる」という久彌の意志の表れである。彌太郎以来の「…会社に関する一切の事…すべて社長の特裁を仰ぐべ し」(『三菱汽船会社規則』第一条)というワンマン・カンパニー的経営体質から近代的マネジメント・システムへの脱皮だった。これこそが岩崎4代による 75年の経営の「起承転結」の「転」の部分であり、「組織の三菱」への分岐点だったともいえる。

1916(大正5)年、第一次大戦の好景気の中で、久彌は信頼する従弟の小彌太に社長の座を譲った。それからは、相談にのることはあっても、経営に口をはさむことはなかった。

久彌は茅町本邸の日本家屋部分に住み、家族との生活を大切にした。生涯を通じて謹厳そのもので、妻の寧子は娘たちに「私の一番の幸せはお父様が家庭を清潔 に保って下さったこと」とよく語ったという。近代人であり、教養人であり、「三菱紳士」の呼び名がぴったりの人だった。

文・三菱史料館 成田 誠一
川口 俊彦
三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2000年7月号掲載

<< vol.02 井ノ口村を忘れず vol.04 久彌を支えた人たち >>

雲がゆき雲がひらけて ・・・岩崎久彌物語・・・

vol.04 久彌を支えた人たち

「人の話を…丁寧に相槌を打ちながら、良く聞いてくれた。…その話の間に人を見ぬき事業の将来性も見極めていた…」。長らく久彌に仕え銀行の会長もつとめた加藤武男は、久彌の人物像を聞かれてこう語っている。

実際、久彌は若いころから聞き上手だった。まず相手の話をじっくり聞き、信頼できるとなると、方向性は確認するが各論は任せた。人を信頼し人に信頼されるという、人の上に立つ者に必要な資質を持っていた。

彌之助が、彌太郎の遺言とはいえ、まだ28歳の久彌に三菱の総帥を譲りえたのは、自分を含め彌太郎以来の幹部が脇を固めていたからである。郵船の近藤廉 平、東京海上火災の末延道成、鉱業の南部球吾、営業の瓜生震。いずれも久彌が信頼し久彌を信頼した人たちである。ここでは性格的にもおよそ対照的な管事 (社長に次ぐ立場)2人、荘田平五郎と豊川良平の人となりを見よう。

慶應義塾の福沢諭吉の教え子、荘田平五郎は豊後臼杵藩士のもとに生まれた。久彌よりも18歳年長で、慶應義塾卒業後、いったんは母校の教師になったが三菱 に入社、「会社規則」を制定し複式簿記を採用するなど、近代的会社経営の基礎作りをした。1881(明治14)年に経営危機の高島炭坑を彌太郎が後藤象二 郎から買い取ったが、これは後藤が借金漬けで政治生命を失うことを危惧した福沢諭吉が仕組んだもので、そのとき荘田は恩師とボスの中継ぎをしている。冷静 緻密。岩崎家の代理人として、日本郵船ほか多数の企業の創立に参画、東京海上、明治生命などの会長もつとめた。

造船王国三菱の基礎固め

荘田は久彌体制では管事として重きをなし、50歳のとき長崎造船所の支配人として赴任、三菱の主力産業に成長しつつある造船の近代化に取り組んだ。ことに 建造船舶ごとに労務費や材料費など製造原価を把握するとともに、減価償却の概念を導入したことは、長崎造船所の競争力を高め、造船王国三菱の基礎を固め た。夫人は彌太郎の妹の娘、すなわち久彌の従姉である。

一方、豊川良平は彌太郎の従弟でやはり慶應義塾の卒業生。幼名を小野春彌といったが、豊臣秀吉の豊と徳川家康の川、漢王朝の智将、張良の良と陳平の平を とって改名した。彌太郎が作った三菱商業学校やその後身の明治義塾の運営に関わった。13歳年少の久彌が慶應義塾と三菱商業学校に学んでいたときは一緒に 下宿し公私にわたり指導した。豪放磊落で、明治義塾の英語の授業ではひどい土佐訛りをものともせず、おまけにknife をクナイフ、knowをクノーと発音して動じず、生徒たちからは「クノー先生」と慕われた。

その後、政治を志し犬養毅と東海経済新報を出版したりしたが、37歳のとき三菱の経営陣に加わり第百十九国立銀行の頭取になった。同銀行はやがて合資会社 の銀行部になり、豊川が部長に就いたが、細かいことは三村君平、串田万蔵らプロに任せ、自らはもっぱら政財界に人の輪を広げて久彌社長を大いに助けた。

ちなみに、豊川の長男の順彌は三菱には入らず、1920(大正9)年、白楊社を設立、純国産乗用車の設計・製造に豊川が残した全財産をつぎ込んだ。知る人ぞ知るオートモ号。わが国最初の量産乗用車であり、輸出第一号車だった。

文・三菱史料館 成田 誠一
川口 俊彦
三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2000年8月号掲載

<< vol.03 事業の多角化と組織の近代化 vol.05 丸の内オフィス街の建設 >>

雲がゆき雲がひらけて ・・・岩崎久彌物語・・・

vol.05 丸の内オフィス街の建設

久彌が米国留学を終えて三菱社の副社長になる前年、彌之助は丸の内の兵営跡地など10万余坪を陸軍省から購入した。1890(明治23)年のことである。 この土地払い下げは、財源に苦しむ政府が、麻布に新兵舎を建設するための費用を捻出しようとしたもので、政府の希望価格は相場の数倍だった。当然買い手が つかない。困り果てた松方正義蔵相が自ら彌之助を訪ねてきて、政府を救うと思って買い取るよう懇請した。

国家に尽くすことは三菱の社是である。彌之助は苦慮した末に、高値購入を決断した。契約名義は「岩崎久彌総理代人岩崎彌之助」。(後に商法が整備されてから三菱合資会社が買い取った)。代金は128万円。当時の東京市の予算の3倍というから大変な買い物だった。

実は、彌之助のこの決断の裏には英国に出張中だった管事・荘田平五郎の「スミヤカニカイトラルベシ」の電報があった。荘田は、ロンドンをイメージした丸の内ビジネス街の青写真を頭の中に描いて帰国した。

東海道線はまだ新橋まで、中央線は御茶ノ水までで、丸の内はまことに不便な地域だった。唯一、日比谷・大手町間に路面電車が走っていた。少し時代が下がるが、丸の内について岡本かの子が書いている。

「私が子供だったころの丸の内は、三菱ヶ原と呼ばれて、八万坪余は草茫々の原野だった。…武家屋敷の跡らしく変った形をした築山がいくつかあった…」

ちなみに、東京駅が完成し丸の内が交通の要所になったのは、ずっと後の大正3年である。

「一丁倫敦」の誕生

明治26年に、久彌が三菱合資会社の社長に就任。翌27年、ジョサイア・コンドル設計による記念すべき三菱1号館が、今の三菱商事ビル本館の位置に竣工し た。赤煉瓦造りの3階建て。三菱合資会社ほか2社が入った。以後、2号館が現在の明治生命本社ビルの位置に、3号館が馬場先通りをはさんで新東京ビルの位 置にできた。4番目は東商ビルの位置の東京商業会議所だった。ロンドンを彷彿とさせる街並みはやがて「一丁倫敦(いっちょうロンドン)」と呼ばれるように なった。

かくして日本初の本格的オフィス街が丸の内にできていくのだが、初期のビルの内部は棟割りにして設計され、各事務所ごとに独立した玄関、階段、トイレを持 つ縦割り長屋方式だった。大正3年竣工の三菱21号館で、初めて現在のように玄関、エレベーター、トイレその他ユーティリティーを共有する方式となり、テ ナントも多数を集める賃貸ビルになった。

ちなみに、煉瓦造りではない現在のようなアメリカ型のビルは、大正7年の東京海上ビルが嚆矢(こうし)である。丸ビルは同12年だった。

明治41年、久彌が三菱に今日の事業部制を採用したことは先に述べたが、桐島像一を部長として地所部ができたのは少し遅れて44年だった。ようやく不動産業が独立した事業として認められたのだった。

久彌の社長在任期間はまさに丸の内オフィス街建設の時期でもあった。その丸の内に煉瓦造りのビルはもうない。高さの統一された四角いビル群に、最近ブ ティックやカフェが続々オープンした。丸の内は21世紀に向けて大きく変わろうとしている。久彌やコンドルが見たら、どう思うだろうか。

文・三菱史料館 成田 誠一
川口 俊彦
三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2000年9月号掲載

<< vol.04 久彌を支えた人たち vol.06 海から陸へ・鉱業と造船 >>

雲がゆき雲がひらけて ・・・岩崎久彌物語・・・

vol.06 海から陸へ・鉱業と造船

時は明治から大正にかけて。殖産興業、産業革命。そして重工業形成の時期。わが三菱は、久彌社長の時代である。当時の三菱の二本柱である鉱業と造船事業において、それぞれ画期的なことがあった。

まず鉱業。1873(明治6)年、政府は鉱物資源を国家に属するもの、と規定した。諸藩経営の有力鉱山は官営となり、近代化のために膨大な国家資金が注ぎ こまれた。だが、インフレと不景気の波状攻撃に苦しむ政府は、西南戦争時の不換紙幣を整理して財政の健全化を図るため、鉱山の民間払い下げに踏み切った。

三菱は、明治14年の高島炭坑を手始めに、長崎の端島、筑豊の新入、鯰田、上山田、方城、唐津の相知、芳谷、北海道の芦別、美唄、大夕張などを次々に買 収。金属鉱山も吉岡に加え、尾去沢(秋田)、槙峰(宮崎)、面谷(福井)、荒川(秋田)などを取得した。金属鉱山払い下げのハイライトが、古来わが国一の 銀山として有名な生野鉱山と、徳川幕府を潤した佐渡の金山だった。いずれも明治に入って技術革新が行われ、模範鉱山になっていた。その二鉱山に、最新の設 備を誇る大阪製煉所を加えての一括入札。帝室御料財産として宮内省が管轄していたため最後まで官営で残っていたのだ。民間払い下げの総決算。これを三菱が 落札し、住友や古河を切歯扼腕させた。明治29年、久彌のリーダーシップによる快挙である。

彌太郎以来の懸案である海から陸への事業展開が大きく広がった。

造船部幹部を諌めた久彌

一方、造船事業では長崎造船所の常陸丸建造が、この時期のエポックメイキングな出来事だろう。

明治28年の暮れ、日本郵船では欧州航路開設のため6000トン級貨客船を6隻造ることが決定された。そのうち1隻は長崎造船所に発注された。当時はこの 規模の船舶はイギリスでしか造れず、長崎造船所の実績はせいぜい2000トン級までだった。このため建造にあたってはイギリスのロイド協会の技師が長崎に 派遣され、異常なまでの厳しい品質検査を実施した。工期は遅れに遅れた。このとき対策の陣頭指揮をとったのが、管事で造船所支配人の荘田平五郎だった。不 信感から出発したこの検査は、やがてロイドも常軌を逸したものと認め、後任が派遣されて検査承認がおり、引き渡しは完了した。

三菱はこの常陸丸建造により膨大な損失を出したが、6000トン級汽船の建造実績が出来た。それは、やがてアメリカ航路の天洋丸など1万3000トン級豪 華客船3隻の受注に結びつき、さらには大型軍艦の建造を任され、造船王国といわれるまでの飛躍的発展の基になった。

日露戦争の後、造船業界を二分していた某造船所の経営が行き詰まり、救済合併の打診があった。ライバルがわが軍門に下る。造船部の幹部は天下を取ったような気分で、三菱一号館の社長室に急いだ。

ところが、話を聞いた久彌社長は、

「それはいけません。合併して競争がなくなってしまうとどうしても気がゆるみます。それでは日本の造船界は発展しません。あくまでも両社が競争して安くて立派な船を造ること、それがお国のためというものです」

と、意気込む造船部幹部を諌めた。自由競争を旨とした久彌らしいエピソードである。

文・三菱史料館 成田 誠一
川口 俊彦
三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2000年10月号掲載

<< vol.05 丸の内オフィス街の建設 vol.07 茅町本邸物語 >>

雲がゆき雲がひらけて ・・・岩崎久彌物語・・・

vol.07 茅町本邸物語

「無縁坂の南側は岩崎の邸であったが、まだ今のような巍々たる土塀で囲ってはなかった。きたない石垣が築いてあって、苔蒸した石と石の間から、歯朶や杉菜が覗いていた」

茅町本邸をこう描写しているのは森鴎外の小説『雁』。1880(明治13)年の話である。無縁坂の北側には主人公であるお玉さんがひっそりと住んでいた。そのあたりは、今はマンションになっている。

茅町本邸はもとは高田藩榊原家の江戸屋敷。明治11年に彌太郎が元舞鶴藩知事の牧野弼成から購入した。のちに周辺の土地を買い増し、ピーク時には1万5000坪余りになった。東京大学や不忍池、湯島天神などが近く、便利で閑静な地域である。

久彌の代になってジョサイア・コンドルの設計により、2階建ての洋館が建てられた。明治29年である。久彌は結婚して駒込の六義園の屋敷にいたが、完成を 待って移り住んだ。イギリス17世紀初頭のジャコビアン様式を基調にした傑作。久彌が留学していたペンシルヴァニアのカントリーハウスのイメージも取り入 れた、木造の建物である。現在は、明治の代表的洋館建築として、古い煉瓦塀や広い芝生の庭園とともに国の重要文化財に指定されている。

洋館は接客もするパブリックスペース。東のはずれに久彌の書斎があった。天井の高い広い部屋で、中央に革のソファがあり、周囲の本箱には洋書がびっしり詰まっていた。ここにはよく三菱の幹部が来て打ち合わせをした。戦争の末期には小彌太社長と夜遅くまで話しこんだ。

隣接する日本家屋はもともと武家屋敷で部屋数は14。身内の会合や宴会は20畳と18畳をぶち抜いた広間で行われた。子どもたちはこの広間や芝生の庭で遊 び、長じてはテニスコートや馬場で汗を流した。学齢期に達した男の子は、独立心を養うために敷地の外に住まわされ、書生の指導のもとで規律ある生活をし た。

敗戦後、占領軍が接収

茅町本邸の近隣の古い人たちは今でも岩崎家のことを懐かしむ。久彌ファミリーがよく気を遣った名残である。湯島天神の祭りには庭を開放して神輿を迎え入 れ、祝儀をはずんだ。関東大震災や東京空襲の際には率先して被災者を受け入れ炊き出しもした。焼夷弾が屋敷の近くに落ちたとき、孫の寛彌は80歳の久彌を 防空壕に導こうとして怒鳴られた。
「臆病者め。みんなが火を消そうとしているときに、防空壕になんか入っていられるか!」

敗戦後、茅町本邸は占領軍に接収され、家族は日本家屋の一角に押しやられた。そして、昭和23年の秋には成田の末広農場に移ることになった。いよいよわが 家を離れるとき、久彌は少年の日の、心の痛みを思い出した。明治6年に一家が高知から大阪に着いたとき、新居である屋敷に前の住人が荷物をまとめきれない でいた。結果として追い出す形になったことを久彌は忘れないでいた。今は自分が荷物をまとめて出て行く…。

「あのときと逆になったなぁ」

50年住んだこの屋敷は、その後、国の所有になった。敷地が切り売りされたり日本家屋の部分に司法研修所のビルが建てられたりしたが、幸い、洋館と大広間部分は当時のままに残った。現在は文化庁の管理下にあり修復中だが、金曜日には希望者に公開している。

文・三菱史料館 成田 誠一
川口 俊彦
三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2000年11月号掲載

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雲がゆき雲がひらけて ・・・岩崎久彌物語・・・

vol.08 今は役目を終えた事業

今はもうないが、かつて久彌が情熱を注ぎ、その時代に役割を果たした事業をいくつか見てみよう。

日本最初の鉄道が開通し、洋服にぞうり、羽織はかまに靴といった文明開化ファッションで、陸蒸気見たさに新橋や横浜の停車場に人々が殺到したのは 1872(明治5)年。欧米視察から戻ってきた大久保利通は言った。「鉄道なしでわが国の繁栄はありえない」。鉄道建設は国造りの急務として、まず東海道 線が国によって着工された。

海運の覇者三菱も各地の私営鉄道の建設に積極的に参画。明治14年、日本鉄道会社が彌之助ほかの出資で設立され、上野青森間全長730キロの鉄道建設が始まった。今の東北本線である。開通は同24年。東海道線の全通に遅れること2年だった。

荘田平五郎と末延道成を役員に送りこんだ山陽鉄道は明治34年に530キロが全通した。現在の鹿児島本線、長崎本線にあたる九州鉄道には、瓜生震が発起人 総代として参加した。その他、筑豊鉄道、北越鉄道など数々の私営鉄道事業に出資し、三菱の幹部が久彌の名代で経営に参画した。

しかし、明治39年、多くの反対にもかかわらず鉄道国有法が施行された。民営鉄道は国に移管することとなり、三菱の鉄道事業も明治とともに終わった。

米作、発電、そして水道事業

話は変わって、明治20年、主食である米を会社組織で作る事業が試みられた。新潟県の広大な地域で、小作人数千人を擁した。種子や肥料や農具の貸し付けか ら農業教育まで、至れり尽くせりの組織対応で、明治後期には期待した成果をあげるところまできた。だが、全国の農村の荒廃は深刻で、あちこちで小作争議が 勃発する。会社組織による米作は社会の流れと合わなくなり、やむなく撤退。大正末から、農地を順次小作人に譲っていった。

農牧にひときわ思い入れのある久彌は、海外での農場経営も手がけた。特に朝鮮半島においては明治40年に東山農場を開設、ピーク時には小作人3000人規 模で朝鮮米の改良と増産に成果をあげた。これは模範農場とまでいわれ長く続いた。が、昭和20年、終戦とともに終わった。

今はやりのIPP(民間発電事業)ともいうべき事業にも久彌は情熱を注いだ。東京電燈会社への売電を目的として、猪苗代水力電気株式会社を明治44年に設 立、全体設計を三菱神戸造船所電機工場のエンジニアが担当した。水車はスエーデン製、発電機はイギリス製、変電設備はアメリカ製。当初は発電規模があまり にも大きくて東京市だけでは消費しきれないとの議論もあった。久彌は「こういうことは将来を見越して、思いきってやるものです」と、エンジニアたちの計画 を支持した。はたして、大正4年の送電開始の際は、東京も予想以上に発展し電力需要も激増していたため、ただちに増設工事に着手せざるをえなかった。

この成功に触発されて大送電事業が日本各地で勃興したが、猪苗代水力電気は大正12年東京電燈と合併することになり、三菱は電力事業から撤退したのだった。

このほか、彌太郎が始めた、東京の小石川、白山、本郷方面への水道事業も忘れてはならない。明治41年に久彌がすべてを東京市に寄付して、事業は終了した。

文・三菱史料館 成田 誠一
川口 俊彦
三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2000年12月号掲載

<< vol.07 茅町本邸物語 vol.09 神戸の紙と横浜のビール >>

雲がゆき雲がひらけて ・・・岩崎久彌物語・・・

vol.09 神戸の紙と横浜のビール

久彌が三菱合資会社の社長として事業を統轄し、鉱業や造船を中心に幅広く発展させたのは明治から大正にかけて。それは近代国家確立の時期でもあった。今回 は、その久彌が個人的な関心を持ち、ことのほか心をくだいた二つの事業を見てみよう。「神戸の紙」と「横浜のビール」である。

彌太郎が土佐開成館長崎出張所の主任として武器買い付けや土佐の物産の売り込みに忙しかったころの取引先のひとつに、ウォルシュ兄弟の商館があった。明治 になり貿易の中心は神戸や横浜に移ったが、付き合いは続いた。1872(明治5)年に彌太郎の弟、彌之助の米国留学のお膳立てをしたのは弟のジョンであ る。

そのウォルシュ兄弟が神戸で経営していた製紙工場に、岩崎家が出資したのは明治22年。当時は木綿や麻のボロあるいは藁屑から紙を作った。30年にジョン が病死し、すでに高齢だった兄トマスは事業を整理して米国に帰ることになった。久彌は兄弟の持ち分を買い取り、合資会社神戸製紙所を設立。37年には三菱 製紙所となり、東京に中川工場を新設、中国の上海にも進出した。

製紙事業は当初、三菱合資会社の傘下にあったが、久彌が社長を退いてからは岩崎本家の事業として位置付けられ、久彌自身が末永く経営に関わった。土佐は昔 から和紙の生産が盛んだった。久彌が長じて洋紙製造に関わったのも何かの因縁かもしれない。大正6年、三菱製紙株式会社に改組、京都工場、浪速工場などを 買収していった。かくしてボロパルプから始まった製紙事業は発展を遂げ、なかでも上質アート紙や写真印画紙など高級紙の分野では他の追随を許さない存在に なった。

麒麟麦酒株式会社の設立

一方、横浜。明治の初めからスプリング・ヴァレー・ブルワリー社がビールを造っていた。これを横浜在住の外国人たちが岩崎彌之助や渋沢栄一ら財界人の出資 も得て買収し、ジャパン・ブルワリー社とした。当時、ビールは日本人にはあまり普及していなかったが、総合代理店である明治屋は明治21年に「キリン」の ラベルで一般向けに売り出した。ちなみに、当時はビールのラベルには犬やライオンなどの動物を使うのが世界的に流行っていた。

明治屋は、岩崎彌之助から資金援助してもらってロンドンに学んだ磯野計が設立した。横浜に立ち寄る船舶に食料品や雑貨を納入することをメイン・ビジネスに していたが、酒類の輸入販売業者でもあった。二代目社長・米井源次郎はジャパン・ブルワリー社の買収を計画し、中国視察に赴く久彌を追いかけて、上海航路 の船上で直談判、全面支援の約束を取り付けた。

40年、明治屋と岩崎家に日本郵船も加わり「麒麟麦酒株式会社」が設立され、買収は実現した。工場は当初横浜の天沼にあったが、関東大震災で壊滅し鶴見に 新工場を設立した。のち尼崎、仙台、広島のほか、朝鮮半島や満州にも事業展開していった。ビール壜の形のボディーの宣伝カーを走らせ、世間の話題をさらっ た。

その後、業界は熾烈なシェア争いと合従連衡を繰り返すことになった。久彌は一貫して麒麟麦酒を支えたが、製紙の場合と違って経営に直接関与することはなかった。

文・三菱史料館 成田 誠一
川口 俊彦
三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2001年1月号掲載

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雲がゆき雲がひらけて ・・・岩崎久彌物語・・・

vol.10 社会のために

久彌が50歳のとき、36歳の従弟・小彌太に三菱合資会社の社長を譲った。交替劇は世間には唐突に映った。1916(大正5)年、第一次大戦の好況のさな か、事業は順調でさらなる飛躍が期待されていた。久彌社長、小彌太副社長のコンビでの理想的なコーポレート・ガバナンスと見られていた。交替の必要性は誰 にも感じられなかった。

しかし、そこが久彌である。こういうときだからこそ後継者に委ねる。無私恬淡。誰にも相談せずに決断した。以後、自分が選んだ小彌太社長を信頼し、三菱合資会社の経営に口をはさむことはなかった。

社長時代、事業の社会性とか公正な競争に心をくだいた久彌だったが、引退後も農牧事業を楽しむかたわら、社会への貢献に気を配った。その最たるものが東洋文庫の設立であり、清澄庭園、六義園の東京市への寄付であろう。いずれも久彌が愛してやまなかったものである。

東洋文庫。世界の五指に入る東洋学研究センター。所蔵する文献85万冊は、久彌の蔵書3万8000冊に加え、中華民国総統顧問G・E・モリソン博士の蔵書 が母体になっている。彼は元ロンドンタイムズの北京特派員で、日露戦争を欧州に報道し続けたことで有名になり、そのまま中国に居着いた。集めた文献2万 4000冊、地図1000枚。中国を去るにあたり、散逸を避けるため、漢籍も洋書も分かる学者か機関に一括して譲りたがった。ハーバードやエール大学が興 味を示したが、久彌が大正6年、言い値で譲り受けた。

久彌は欧文書籍中心のモリソン文庫をさらに補強すべく和漢の文献の収集に尽力、対象もアジア全域に拡大していった。文庫が丸の内の赤レンガのビルの中に あったころ、芥川龍之介なども利用している。大正13年に財団法人東洋文庫設立。文京区駒込に4階建ての書庫と研究棟を建設し、財団の維持基金も拠出。以 来、東洋文庫は内外の学者の東洋研究の場となって今日に至っている。

期するところは社会への貢献

江東区深川の清澄庭園は明治11年に彌太郎が大名屋敷跡など約3万坪を買い上げ、自ら指揮して日本庭園にしたもの。池のほとりにはジョサイア・コンドル設 計の洋館があった。深川親睦園と命名し、社員クラブ兼ゲストハウスにしていた。しばしば各国、各界の要人を招いてガーデンパーティが催された。大正12 年、関東大震災。膨大な犠牲者を出した東京市の災害復興計画に防災緑地の確保が盛り込まれた。久彌は率先して深川親睦園を東京市に寄付した。今日も都民に 親しまれている。

一方、文京区駒込の六義園は、五代将軍綱吉に仕えた柳沢吉保の下屋敷だった。明治11年、彌太郎が周辺土地も含めて買い取り、日本庭園として整備した。久 彌は、新婚時代をこの3万余坪の六義園にある邸宅で過ごし、やがて茅町本邸が完成して移り住んだ。しかし次第に、この庭園を自分たちが独占していることを 心苦しく思うようになった。1938(昭和13)年、寄付を申し出る。東京市は記念式典を行い感謝状を贈ろうとしたが、久彌は固辞した。

久彌は、スタンドプレーを嫌い、自然体を旨とした。「期するところは社会への貢献」という彌太郎以来の考え方は、三菱の精神として今日も各社に受け継がれている。

文・三菱史料館 成田 誠一
川口 俊彦
三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2001年2月号掲載

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雲がゆき雲がひらけて ・・・岩崎久彌物語・・・

vol.11 小岩井の四季

岩手山麓に広がる緑の大地。小岩井農場。総面積3000ヘクタール。

1891(明治24)年、岩手県の不毛の火山灰地に、ヨーロッパ農法による本格的な農場の建設を夢見た男たちがいる。小野義真日本鉄道副社長。岩崎彌之助 三菱社社長。井上勝鉄道庁長官。3人の頭文字をとって小岩井農場と命名した。東京から鉄道が開通したばかり。ロマンあふれる事業だったが、寒い痩せた大地 は思うようにならなかった。8年の苦闘の末に小野と井上は手を引く。

だが、岩崎は諦めなかった。スギやアカマツ、カラマツが少しずつ育っていく。牧場では乳牛がふえる。牛乳や醗酵バターの製造販売もささやかながら開始された。

彌之助の後を継いだ久彌が、時間の多くを小岩井農場に費やすようになったのは明治39年である。それまでの牧畜にあきたらず、イギリスからサラブレッド種 を輸入して種馬の改良と生産、競馬馬の育成に力を注いだ。やがて小岩井産の駿馬がダービーを制覇する。ホルスタインの種牛を生産し、酪農製品の製造販売に も注力した。農作は燕麦、とうもろこし、じゃがいも、大豆など。地道な植林事業は、かつては見渡す限りの荒野だった大地を緑の森に変えた。

久彌は毎夏、家族とともに小岩井農場に滞在した。農場には岩手山を背にして聴禽荘(ちょうきんそう)と名づけた別邸があった。広く明るい芝生の庭にアカマ ツが生い茂り、遥かに南昌山(なんしょうざん)が見える。妻の寧子や娘たちは単調な農場の生活にすぐ飽きてしまうが、久彌はステッキを振りふり農場を歩き まわる。家族が寝ているうちに起きだし、ニッカーポッカーにヘルメットという姿で馬の調教に立ち会ったり、最新のアメリカ製トラクターに同乗した。

農場には子弟のための小学校があった。久彌は子どもたち一人ひとりを覚えていた。毎年やってくると、ノートなどの土産を手渡しながら、成長した姿を我がことのように喜んだ。農場員には親子二代という者も多かった。現在は三代目もいる。

岩手山に雲がゆく

小岩井農場展示資料館の館長をつとめる野澤裕美は語る。「茅町様の奥様はため息が出るくらいおきれいで、お上品で、お優しくて、それはもうすばらしい方で・・・と農場の女性たちに語り継がれています」。野澤も小岩井で生まれ小岩井で育った。

農場の秋の収穫祭には作物の品評会があった。一等は「茅町様」に届けられ食卓をいろどるとあって、大いに盛り上がった。茅町の久彌たちも小岩井から一等入選の作物が届くのを毎年楽しみにしていた。

晩年、久彌は千葉の成田に近い末広農場の別荘で過ごした。90歳の秋、病床に小岩井からりんごが届いた。

「もう・・・そんな季節に・・・なったか・・・」

障子を開けさせ、青い空を見て涙ぐんだ。長宗我部武士の血をひき土佐の気性を秘めた久彌だったが、1世紀近くを生きた今、心に宿る小岩井の四季。岩手山に雲がゆく・・・。

久彌の夢見た海外での農牧事業はいずれも志なかばで挫折したが、ブラジルだけは、ファゼンダ・モンテ・デステ(ポルトガル語で「東山農場」)が、見果てぬ 夢を紡ぐ。サンパウロの北西120キロ。見渡すかぎりのコーヒー農園。岩崎家当主・寛彌の跡取り、透が赤銅色に焼けた笑顔で取り仕切る。

文・三菱史料館 成田 誠一
川口 俊彦
三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2001年3月号掲載

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雲がゆき雲がひらけて ・・・岩崎久彌物語・・・
vol.12 末広農場の日々 – 最終回 –
戦後、財閥解体に続き、財閥家族に過酷な財産税が課された。久彌は住みなれた茅町本邸を出、成田近くの末広農場に移り住んだ。三菱の総帥を退いてからは、小岩井農場とともに最も多くの時間を過ごしたところで、亡き寧子夫人の思い出も多い。

GHQ(連合国総司令部)や新しい日本政府の方針に言いたいことが山ほどあったであろう。しかし久彌はすべてをのみ込んで、淡々と日々を送った。大好きな馬や牛、鶏や豚もいる。農場員と動物談議を楽しみ、時にはお気に入りの馬に話かけた。

親子二代にわたり末広農場を手伝い、近くで自ら競馬馬の育成やリハビリをやっている出羽牧場代表取締役の出羽龍雄は言う。

「農地解放で、岩崎家は6ヘクタールだけを残してあとはすべて手放されました。その際久彌様は、農民たちに実に木目細かくお心を配られた、と父から聞いております」

東京では第一生命のビルにGHQが置かれ、変革の嵐が吹き荒れていた。丸の内の半数のビルは接収された。三菱商事には解散命令が下り百数十社に細分化され た。商号の使用を制限された三菱銀行は千代田銀行に、三菱信託は朝日信託銀行になった。三菱重工は東日本・中日本・西日本重工業の3社に分割された。三菱 化成は戦時合併以前の3社に戻った。

町には失業者があふれ、戦災で親を失った浮浪児たちは駅の地下道に寝泊まりした。進駐した米兵と日本女性の間に多くの混血児が生まれ、その子たちの生きる場所がなかった。

そんななかで混血の孤児たちの救済に立ち上がった女性がいた。外交官澤田廉三の夫人・美喜。久彌の長女である。美喜はさまざまな困難と中傷の中を奔走し、 大磯のかつての岩崎家別邸にエリザベス・サンダース・ホームを開設する。美喜の思いやりとひたむきさはまさに久彌譲りであった。挫折しそうになると美喜は はるばる末広農場に父を訪ね、アドバイスを求めた。久彌はすでに財政的な支援はできなくなっていたが、夜遅くまで相談にのった。

美喜は多くの人々の善意に支えられ、700人以上の孤児を育てあげた。成長した孤児たちは、国内のみならず「七つの海を越え」、米国やブラジルなどで立派な社会人になっているが、今でも亡き美喜を「ママ」と呼んで慕っている。

昭和30年没、享年90

朝鮮動乱をきっかけに日本経済は立ち直っていった。1952(昭和27)年には対日講和条約が発効し、三菱の商号も使用制限が解除された。三菱商事は大合同を果たした。三菱各社は企業グループという新しい形で発展しはじめた。

久彌らしく、大上段に構えた訓辞は一切、残さなかった。ただ、第一次大戦勃発で世間が投機ブームに沸いていたとき、浮き足立つ社員に与えた訓示がある。それはそのまま久彌の生きざまであり経営哲学だった。

「健全な国家を支えるのは国力であり、国力の充実は実業に依る。それゆえ実業に従事する者の責任は重い。…実業の根底にあるべきものは各人の高潔な人格と公正な行動だということを忘れてはならない…」

末広農場の自然の中で、はるかに三菱の再興を見守った晩年の久彌だったが、昭和30年の冬、静かに90年の生涯を終えた。奇しくも四代目社長小彌太の命日だった。

文・三菱史料館 成田 誠一
川口 俊彦
三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2001年4月号掲載

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