南洋事業
一、沿革
南洋事業としてはオランダ領スマトラにおけるオイルパーム(油椰子)栽培事業とマレー半島におけるゴム栽培事業の二大企業を挙げなければならない。前者は昭和4年スマトラ島東海岸州メダン市においてオランダ商法に基き資本金400万ギルダーの株式会社を設立し、これをエヌ、ヴイ、トーザン、クルツール、マースハッペイ(東山栽培株式会社)と称し創業に着手したのである。即ち同年12月同島の東海岸州コタビナンに面積約12,000町歩の地権(コンセッション)を獲得しさらに昭和6年同州ラブアンビリク港近く(パネ地方)に約6,000町歩期間75ヵ年の世襲借地権(エルフパクト)を得て同年先ずこのパネ地方より開墾する事とし園名をアジャム園と名付けた。コタピナンの土地は昭和8年都合により未開墾のままその権利を返還し爾来専らアジャム園の開発に全力を注いで今日に至ったのである。
マレー半島のゴム栽培事業はコンソリデーテッド三五公司リミツテツドの名において経営している。三五公司は南洋における邦人ゴム栽培企業中最古にしてかつ最大である。明治39年11月マレー半島ジョホール州ジョホール河口ペンゲランにおいて約2,000エーカーの土地を租借したるに創まり、次いで同42年同州バトバハにおいて3,000エーカーを租借し爾来租借地の追願付近外人および土人所有のゴム園を買収併合して今日の如き4万エーカーを超ゆる園となったのである。その間当社組織にも変更があり、従来組合組織で経営し来たものを昭和8年には英国会社法による株式会社組織に改め名称も三五公司をコンソリデーテッド三五公司リミツテツドと改め、資本金500万ドル全額払込の会社として同年12月英領海峡植民地新嘉坡(つつみ)政調に登録した。この三五公司の名称は明治35年8月台湾総督府の別動隊として福建省廈門(あもい)において日本の海外発展の商社が設立されその主宰者となった愛久澤直哉又35歳の時であつて奇しくも三五の数字が一致して居たのに因んだもので、青年の意気はさらに南進してマレー半島の一角に達し前記ゴム栽培事業に着手し、これに又三五公司の名を冠し苦心惨憺に今日の基礎を築いたのである。当公司所属ゴム園はペンゲラン植林地、バトバハ植林地、クライブツサ-ル植林地、二千六百年職林地の四ヶ所で創業者愛久澤直哉氏と岩崎久彌男爵の共同出資に係りその経営は挙げて愛久澤氏に一任されて居たのであるが、昭和15年8月同氏が病没したので同年12月より東山農事株式会社において経営する事となった。