山本喜誉司
東京生まれ。1905年、東京府立第三中学校に入学。1910年、旧制第一高等学校に不合格となり慶應義塾大学理財科予科に進学したが、翌年再受験して二部乙類に合格する。その後東京帝国大学農学部に進学し、原煕に師事。講座のメンバーは同期に太田謙吉、坂田静夫、丹羽鼎三、野間守人、森一雄、阿部貞著の面々。1917年(大正6年)卒業。同年7月14日三菱合資会社本社東洋課技師としてに入社。社長岩崎久彌から海外での農場経営の任務を与えられ、中国北京に滞在。綿花事業に携わる。
1918年2月19日から10月2日7か月半を小岩井農場耕耘部で実務見学。
当時小岩井農場では主要幹部候補生の実務研修が行われた。
査業課技師補 小畠忠男
1920年(大正9年)6月14日から約1年
宮地勝彦
1922年(大正11年)10月30日−1923年11月
査業課海外派遣生 片柳光四郎
1924年(大正13年)12月3日 から約1年
1926年、コーヒー栽培事業のため、ブラジルに派遣される。サンパウロ郊外のカンピナスの丘陵に岩崎彌太郎の号「東山」を冠した東山農場を開設。
翌年、三菱資本で合資会社「カーザ東山」を設立。コーヒーの取り扱うが、その他の産物や加工などにも事業を行い、多角経営化を図っている。第二次世界大戦中と戦後では強いリーダーシップで日系ブラジル人#「勝ち組」と「負け組」の抗争終結と日系人の権利回復に奔走。
1954年サンパウロ市建設400年祭において日系コロニアが日本館を建設してサンパウロ市に寄贈する。1955年にはサンパウロ日本文化協会を創立。3年後の日本移民50周年祭をコロニアの総意で実現させる。
1963年、71歳のとき肺がんで帰らぬ人となる。
山本の没後彼を記念して山本喜誉司賞が設立されている。
芥川龍之介の妻文子の母方の叔父で、芥川とは旧制東京府立第三中学校時代の親友であった。
山本喜誉司
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文・三菱史料館 成田 誠一 ※三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2006年1月号掲載 |