坂本正治(さかもと・まさはる)

 

明治10年(1877)4月14日に、高知市で生れた。

明治35年(1902)1月、24歳 東京高等商船学校の航海科を卒業して、日本郵船株式会社に入社した。

明治36年(1903)5月から同39年(1906)9月まで、北京へ留学

明治39年(1906)12月、29歳 三菱合資会社に入社

大正8年(1919)4月、42歳 三菱商事取締役

大正8年(1919)8月, 42歳 三菱商事常務取締役

大正10年 (1921)10月、44歳 三菱製鉄会社の常務

大正12年(1923)3月、45歳 三菱製鉄を辞任して、三菱合資会社の参与

大正14年(1925)1月、47歳 三菱合資会社を退社

大正14年(1925)2月、47歳 東山農事株式会社の取締役に就任した。

昭和2年(1927)7月、50歳 東山農事株式会社の専務取締役

昭和12年(1937)3月、59歳 東山農事株式会社の取締役会長に就任

昭和20年(1945)7月、67歳 終戦の直前に東山農事株式会社社長を辞任

昭和27年(1952)2月7日、74歳 逝去した。

 ブラジルで、事業を創始することを企画し、岩崎久彌男爵に進言して、これを実行に移したのが、坂本正治氏であった。

 坂本氏は三菱諸会社の役員を歴任し、最後には東山農事株式会社の社長をつとめた人で、その経歴は若干毛色が変っていた。

 坂本氏は、岩崎家と同じ土佐の出身で、明治10年(1877)4月14日に、高知市で生れた。

 藩校海南学校、山内容堂公の建てた(中学校)から、東京高等商船学校に進み、明治35年(1902)1月、同校の航海科を卒業して、日本郵船株式会社に入社した。

 大東亜戦争の軍令部総長をつとめ、戦犯裁判では「開戦の責任は一つに軍令部総長であった自分にあり、絶対に陛下には無い」と天皇陛下の前に両手を広げて立ち塞った永野修身海軍元帥は、海南学校在学中、坂本氏の親しいクラスメートであった。

 明治36年(1903)5月から同39年(1906)9月まで、北京へ留学したが、帰国後、日本郵船会社を退社し、同年12月、三菱合資会社に入社し た。小樽支店長、神戸支店長を経て、三菱商事株式会社の船舶部長となり、大正8年(1919)4月、三菱商事取締役、同8月常務取締役、同10年 (1921)10月、三菱製鉄会社の常務となった。大正12年(1923)3月、三菱製鉄を辞任して、三菱合資会社の参与となり、約1ヵ年に亘って欧米に 出張した。当時、南米へも足を伸ばして、新興国ブラジルの将来に着目したのであった。

 欧米から南米をつぶさに観察した坂本氏は、大正14年(1925)1月、三菱合資会社を退いて、同2月、東山農事株式会社の取締役に就任した。
 
 坂本氏は、南米、特にブラジルが、古くから本邦移民を迎え入れて、国交関係も極めて親密なこと、また元来同国が農業国であり、農本の国であるから、この 国に進出して、共存共栄の理想の下にまず農場を拓き、これをブラジル在来の単作農法でない、多角的経営による模範農園とし、徐々にその完成充実を期するな らば、必ずや成功するであろうという確信を得て、ブラジル進出を策したのであった。

 坂本氏を東山事業の参謀総長とみるならば、君塚慎氏は現地における最高指揮官であり、山本喜誉司氏は部隊長であった。だからこの縦に一貫性のある諸業績を、各個人毎に分割して、一々叙述するのは容易のわざではない。

 東山事業の発展の経過は、君塚氏の章でかなり委しくのべてあるから、ここでの再録は避けることにしたい。

 君塚氏にしても、山本氏にしても、まことに多大の業績を残し、それが累積されて戦後再び東山事業として、今日の大を形成したのであるが戦前その建設途上にあっては、重要なことは悉く、坂本氏の指揮に仰ぎ、更に重要なことは、岩崎久彌男の決裁を求めたのであった。

 坂本氏は、昭和2年(1927)7月、東山農事株式会社の専務取締役となり、同時に、事業に着手したばかりのブラジルの事業所を視察のために渡伯した。カンピーナスの農場をやっと入手したばかりの時であった。

 東山農事株式会社は、朝鮮、台湾、スマトラ、マライ半島等にも事業所をもっていたので、昭和3年(1928)1月、ブラジルから北米を経由して帰朝すると、その翌年の昭和4年(1929)4月には、油椰子栽培視察のためスマトラに出張し、同年8月に帰朝した。

 昭和12年(1937)3月、坂本氏は東山農事株式会社の取締役会長に就任し翌13年(1938)4月には、再びスマトラ島を初め、馬来(マレー)半島 へ出張した。翌年の昭和14年(1939)4月には、三度目のブラジル訪問をしたが、東山関係の各事業が隆々伸展して、目覚ましい発展の一路を辿っている 時であった。

 当時、カンピーナス農場内の酒造会社では、大いに利益をあげるため、日本酒ばかりでなく、ピンガ(火酒)もつくっていた。元々日本酒を造るようになった目的は、邦人移住者がピンガで健康を害うからこれを防衛するためというのがうたい文句であった。

 坂本氏にピンガを製造していることを発見されて、大きなお灸をすえられたという話が、今だに伝っている。

 昭和20年(1945)7月、終戦の直前に東山農事株式会社社長を辞任、戦災に会って焼出され、不幸、その居所を喪った坂本氏は、終戦後、岩崎家の染井の墓地内の、休憩所として建てられた小住宅に住んでいたが昭和27年(1952)2月7日、逝去した。

 坂本氏が着目し、企画し、実行にうつしたブラジルの東山の事業が経営者にその人を得て、終戦後、逐年躍進をつづけていることは、地下の坂本氏も定めて本懐とせられ、更に将来の伸展を祈っておられるであろう。